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10/11 就活関連メールでメールボックスがパンクする!

先輩がとにかくゴーヤが嫌いだ嫌いだというので、なぜですか?と聞いたら

先輩「苦いから」

僕「ゴーヤは苦いのが売りじゃないですか!にがうりだけに。」

叩かれました。

どーも、峰です。

最近、日記を書こう書こうと思ってるけどまとめる時間がとれないので、ちょっと前に書いたけどつまらなかったのでうpしなかった日記をそのままうpしようと思う。そんな無謀な僕ステキング。

さて、何人かの日記を見てると「20世紀少年を見た」というのがあったので、ぼくもそのことについて書こうと思います。

と、言っても僕は20世紀少年の映画見にいってないし、本の方も読んだことがありません。知っていることといえば「友達」がキーワード。少年達の大活躍。それぐらいです。

なので、想像で書いてみようと思います。

史上初?見ていない映画レヴュー!!

では、どうぞ。

20世紀少年

ここは戦後間もなきニホン。今まさに混沌と絶望の節から立ち上がらんと奮闘している中、物語は始まる・・・

「オギャー!オギャー!」

ここはトウキョウの下町、戦時中もっとも被害が大きいといわれた場所である。

「男の子です!」

産婆さんが言い終わらないうちに歓声と共に安堵の声が聞こえる。

「おお!待ちに待った息子、ソウスケだ!よく生まれてくれた!!」

真っ先に母ハナコに駆け寄った父タロウは母の手を握り締め、そして、ソウスケを抱きかかえるのであった。

そして数日後・・・

タロウには一つ悩みがあった。タロウが青年のときに些細な理由から友達と喧嘩をしたのである。タロウは怒りがあるラインを超えたときに意識を失い、気がついたときには目の前に友達が片腕がなくなり血まみれで倒れ、目も当てられないほどの惨劇だったのである。

それ以降、タロウの周りには人が寄り付かなくなり、そして、親すらタロウを狐憑きだと恐れ姿をくらませてしまったのである。

タロウはその時から孤独でありながら強く生きようと心に決めたのである。このときタロウ齢18であった。

その後のタロウはなぜか不思議な力に守られているかのように生き延びることができた。タロウの身に危険が迫ればいつもなにか不思議なことが起きるのである。

ある夜のことである。タロウはお腹がすいたので食べ物を盗もうと、だれのかわからない畑に忍び込んで大根を必死に引き抜いているときである。

「だれだ!」

怒声と共に懐中電灯で照らされつかまってしまうのである。しかしここでも不思議な力に守られることになったタロウ。気がついたときには、爆裂四散した死体と返り血を浴びたタロウがそこに立ち尽くしていた。

このときから、タロウはこの力を、「いつもそばにいる」という意味の「友達-フレンド-」と名づけたのである。

ソウスケもその呪われた血をひいているのか、ただそれだけが心配だったのである。

と、こう始まるわけなんですが、あんまり詳しく書くとネタバレになるのでやめときます。

まぁ最終的には第三次世界大戦が始まりニホンは焦土と化すわけですが、同じような能力をもった少年7人ぐらいが共闘しメリケンどもをちぎっては投げちぎっては投げの大車輪、父タロウの破壊の能力とは違う、触れたものに生命を与える、という力で食糧危機とか乗り切って生き残る、そんな話でした。

最後の締めは長老みたいな人のこの言葉で終わりです

「彼の能力はまさに20世紀を生き抜く至高の力、彼こそがまさに20世紀少年じゃ」

とまぁ、そのまま「洗脳・搾取・虎の巻」をBGMにスタントのミスシーンとスタッフロールが流れつつ終わりって感じ。

最近、よくある異能力系戦闘マンガの映画化にしてはなかなかよかったと思います。友達とかはCGを上手く使ってあって戦闘シーンは大迫力で自然と引き込まれるような作品でした。

評価:★★★★☆

さて、書いてみましたがいかがでしょうか?

ぜんぜん違うじゃねぇか!死ね!

とかコメントしないでください。

チャオ



10/10 麻雀で好きな上がり役は紅孔雀

とか言う人とは麻雀したくない

どーも、峰です。


シバフスキーとアロエが連日、村上春樹みたいな文章書いてるので僕も便乗して画像なし!「w」なし!の、そう、例えるなら僕の就職先の社内報の3頁右下に載るコラムに投稿する草稿のつもりでチョチョイと筆を走らせてみようと思う。

まず、シバフスキーの日記からぷんぷん臭ってくる村上春樹臭からビビッとキタ僕は洋書翻訳関連で有名である野崎孝風文体で書こうと思う。

さて、このようなさわりで始まると多くの人が疑問に思うであろう二者の文体の違いだが、正直なところ僕もほとんどわからない、しかし、僕も20年生きてきたので多少の洋書は読んできた。なんとなく、そう、ほんとうに微妙な差異だが感覚でわかるのだ。おそらくこの日記を読む多くの人が多寡はあるものの洋書をよんだことがあると思う。そして、その人たちは共感できることであると思う。いや、そうあるべきだと思う。

昨今のネット社会において、よく村上春樹と野崎孝は対比される関係にある。村上春樹の文章は良くも悪くも非常に読みやすい文だと思う。そして、野崎孝は原文に忠実に訳しているようでクセが強い。

しかし、両者は一長一短だと僕は思う。

村上春樹訳は非常に読みやすい、しかし、安直な、言葉は悪いが、そのような言葉を敢えて選び敷居を低くしているように感じる。しかし、安直な言葉の中にも非常に上手くそして程遠いまでの暗喩、いわゆるメタファーである、それを組み込むことにより非常に深い表現をしてることも感じられる。「隠喩能力を、異なった二つのイメージ間のジャンプ力と考えるなら、彼ほど遠くまでジャンプする日本の作家は存在しない」とまで言われているのである。だが、彼ほどストーリーを難解に描く著者もいないであろう。彼自身「物語の難解さ」について、「論理」ではなく「物語」としてテクストを理解するよう読者に促しているのである。つまり、一辺倒な理論的理解でなく「物語を楽しむ」のがもっとも重要だと。

この、安易な言葉で高度な内容を取り扱い、読者を引き込む力こそ、村上春樹らしさであり、全世界に村上春樹の影響を与え、つまるところ、春樹チルドレンたちを生み出す根源なんだと僕は思うのである。

さて、次に野崎孝である。彼は、原文に忠実に訳すると前述した。野崎孝の訳した文章としてはヘミングウェイやサリンジャーが有名である。話はずれるがヘミングウェイの作品では「老人と海」が最高に好きだ。話を戻そう。サリンジャーの著書で有名な「The Catcher in The Rye」。彼が訳したこの作品の、主人公は非常に人間くさいのである。それが良さであるか悪さであるかは読者しだいなのでここでは言及しないでおこう。

村上春樹訳の主人公は非常に感情移入しやすい、例えるなら一昔前の若者のような。僕がそう比喩するのもおかしな話だが、そういった雰囲気を感じる。しかし野崎孝訳ではどうだろう、主人公の若さ、荒々しさがひしひしと伝わるのである。

そう、まとめるならば村上春樹が、その文章が好きだという人、物語を楽しみたいと考える人は村上春樹訳を読むべきであろう。文章を読み、その時、場所、空気を感じたいと考えるならば野崎孝訳を読むべきだと僕は思う。

しかし、野崎孝が上か、村上春樹が上かという議論は毛頭するつもりはない。なぜならその議論は意味がないと僕は思う。優劣を付けること自体がおろかな行為なのである。

さて、先の例で「The Catcher in The Rye」があがった。これについては、僕は野崎孝訳を読むことを勧める。

ひとつ昔話をしよう。僕が始めて野崎孝訳「The Catcher in The Rye」を読んだのは高校生のときである。この時クラスでは、いや、おそらく僕の仲間内だけであろうが、「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」が流行っていたのである。「また、アニメの影響か・・・」なんて思うのはちょっと待って欲しい。どんな理由にしろ、たとえそれがエロゲーの影響であろうと世界的な名作に触れるに当たってキッカケとなるものはなんだっていいと思うのである。名作に触れるということ自体が人生において尊ぶべき機会だと思う。この件に関してはまた別の機会に触れようと思う。

さて、影響を受け読み始めてみたが、正直、非常につまらないものであった。当時、野崎孝の訳の原文への忠実さは、ひどく読み難く、僕を苦しめたものである。

しかし、時も経ったある日、もういちど読み返してみると、なんということだろう、非常に心地よい読み応えを感じたのである。その時がおそらく大学2年ぐらいのときである。大学2年といえば世の中一通り経験してきて、いわば経験値もそこそこの値になっているだろう年だった。それもあり、他の小説で引用されるような名言、名節もわかるし、村上春樹の訳す安易な文体でないと読めない、ということもないのである。

そのような経験に基づき野崎孝訳を勧める。この日記を読みサリンジャーに興味を持つ方々はほとんどが、村上春樹訳じゃないと洋書は読めないと言う年ではないだろうことを予想しそのような結論とする。

なんといっても、野崎孝訳のThe Catcher in The Ryeは表紙が好きだ。

さて、忘れてはいないだろうか。この話の発端は村上春樹風と野崎孝風の違いについての考察からだと。話は大きくそれてしまい長文を書いてしまったが要は「Don't think. Just feel」ってことだ。

さて、思ったよりも文章が長くなってしまった。ここからは野崎孝風とかもうやめて、自分なりの、でも、いつもとちがう文体で記そうと思う。

なんだよ、野崎孝風て。

やっと、ここからが本文です。

「俺のことわかった気になるんじゃねーよ!」

「私のことわかった気にならないで!」

よくドラマでとかで聞くセリフですね。人は誰しも"裏側"があると思います。それは、"秘密"とはまた違った部分。いつかは自分の秘密を人に言う機会があるでしょう、ばれるときがあるでしょう。秘密とは人に言うことができます。

しかし、ちょっと考えてみてください。裏側というものは人に言ったりばれるとそれはもう裏側ではなくなる。いわば表側になってしまいます。裏側とはそんなあやふやなものです。そうあるべきものなのです。

僕が小学生のときにS君という友達がいたのですが、彼は頭がちょっと悪くて、といっても勉強ができないという意味ではありません。傾奇者だということです。

で、ある日、彼が服を裏返しに着ていることに気付いた僕は指摘してあげたのです。他の人に気付かれると恥ずかしいからね。

「服、裏返しにきてるよ」

「しってるよ」

!!

知ってました。服が裏返しなの知ってました。

なぜ、知っているのに直さないのかを聞いてみるとスゴイ理論を発表してた!

まず、服を普通に着て一日過ごすじゃないですか。で、洗わずに別の日に裏返して着れば汚くないんだとさ。彼にとって服の裏側とは表側だったのです。なんかとてもフィロソフィーな、いや、フィロソフィフルな状態ですね。J・ガイルの左手が右手だったとかそういったものを超越してるよね。

いやー子供心に衝撃が走ったね。君のひとみは10000ボルトって感じです。地上に降りた最後の天使♪なんて歌ってる場合じゃない。どうりで、無地のTシャツよく着てると思った。裏返して着ることにより理論的には持ってる服の枚数が2倍だね!ってアホか。

結局僕はその時普通に納得してました。「おー!なるほどなー!」とか言ってた気がする。

そんなこともとうに忘れた高校生のころ、ふとしたきっかけでそれを思い出したんだけど、今考えるとやっぱり毎日洗わないと不潔だよね。当時の僕は何を考えて納得したんでしょうか。もしタイムマシンがあるなら、その時に戻って「それは違うよ、少年!飴をあげるからよく考えるんだ!」と小一時間説得コースですね。

そんな経験もあった僕ですが、やっぱりそれは違うと思います。何が違うかって服を毎日洗うことです!洗うことです!

大学に入って一人暮らししてるけど服は毎日洗ってません。正直ファブリーズで済ませてる。なんたって学校行ってると洗濯物が取り込めないし、少ないレパートリーの服を毎日洗ってるとヨレヨレになりますからね。と、いうかヨレヨレッヨレになる。雨の日の次の日に路上で見つけたエロ本のページみたいになりますからね。

でも、裏返して着たりはしませんよ。裏返して着るってなんだよ、頭がいかれてるとしか思えない。前田慶次もびっくりの傾奇者だよ。

話がまた飛びました。僕には村上春樹にも勝るジャンプ力があるかもしれませんね。

でまぁ言いたいことは簡単なことなんですね。

僕の使ってるベッドシーツは袋状のやつで、ホテルとかにある一枚の布状のやつじゃないんですよね。まぁ布状のやつ使ってたら使ってたで傾奇者ですがね。それが破れてしまって、今現在、裏返しにして使ってるんですよ。そろそろ新しいの欲しい。もう、2ヶ月ぐらい裏返しでつかってるかも。

でも、頭の片隅にはシーツの表側が2年ちょいで破れたわけだから裏側も2年耐えると計算すれば、別に新しいの買わなくてもいいんじゃないかと。いや、それはないか。

あ、そういえば僕も裏返して使ってました!ベッドシーツ!

ごめん、S君、君は正しかったよ。君と君のその理論、裏返して着れば汚くない理論。

ここまでおおっぴらに書いといてなんですが、僕のベッドシーツがやぶれてて裏返しにして使ってるということは秘密でお願いします。

裏側だということが秘密。

裏側と秘密は共存関係にあることもある。これもまた裏側というものがあやふやなもの足り得る理由の一つなのかもしれませんね。

チャオ

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